リチャード・ニクソン
1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で、熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった。
実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノやバイオリンを習っていたことから、決して貧しいものではなかった。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。
その後ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に二番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。
弁護士
デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した。
弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
リチャード・ニクソンは第二次世界大戦後の大統領です。